1――例え知的常識から解答できるにせよ、根拠は文中に無ければならない。

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思考訓練の場としての現代国語―受験国語

思考訓練の場としての現代国語―受験国語

全339pに多分9ptくらいの文字が二段組みで詰まっている本。そのため見た目よりも遥かに分量が多い。

多田の『思考訓練の場としての英文解釈』が神本ということで、こちらも同様に神だろうという想定をしていたが(実際アマゾンレビューも絶賛ばかりだ)、どうも怪しい。

試しに冒頭一題を解いてみたが、その第一問である、「言語的危機」を説明せよ、という問題の解答法がとても怪しい。(外山滋比古『日本語の論理』より。)

本文は夏目漱石の事例などを取り上げながら、近代日本語が翻訳文化であることによっていかに不安定であったかを説いている。

棟は、自己が二つの言語に迫られて、どちらかに賭けなければ思想的な存在が危うくなること、と「言語的危機」を説明している。しかしこれはおかしい。(「思想的な存在」なんていう言葉が本文のどこにもないことも気になる。)

このおかしさは、まさに本シリーズの典範である『思考訓練の場としての英文解釈』第一章を読めば分かる。著者の多田は、外国語(とりわけ英語)を学ぶことはそれによって我々の母語である日本語が震動し彫刻されることだと言っている。その通りだ。

つまり棟の誤謬は、言語が「思想的な存在」即ち「主体」と深い関係にあることを知りつつも、それを言語から切り離した通俗テカルト主義的な発想をしていることにある。迫られているのは日本語によって規定された自己に他ならない。そして、自己を規定する日本語が震動しているからこそ自己もまた震動するのである。「言語的危機」とは、かような意味での文化または自己のアイデンティティの崩壊に他ならない。(明治以降、日本語がほとんど新しい形に生まれ変わったのは、それによるアイデンティティの再構築である。柄谷行人日本近代文学の起源』などを参照せよ。)


ということで、のっけから出鼻を挫かれた印象である。特に同様の記述が同シリーズの最重要点として書かれていることに意識が届いていないことが悪印象を強めている。

通信添削であることを活かして、生徒の誤答を取り上げ、それがどう間違っているかを論っていくのは面白いのだが、それだけではなく、合理的な即答があることを期待したい。長いので少しずつ読んでいきたいところだが、正直、この書物を読むことは時間の無駄ではないかという恐怖が強まっているので、相当に後回しにするかもしれない。