体験版として第一問だけ解いてみた。

 ちまちまと『田村の総合現代文』を解こうと思っていたが、霜の参考書もやったことだし、この際、色々な本をつまみ食いしてみることにした。

私大編 現代文のトレーニング

私大編 現代文のトレーニング

 改訂版を使用。といっても異同は、改訂版には入試問題が追加されているということだけ。お得度から考えて新しいのがお薦めだろう。
 で、むずい。昔、改定前のものをやったことがあるがそのときもあまりの難しさに音を上げた覚えがある。特徴としては「文章のなめらかさ」という視点があること。これは案外便利である。「□□的で独自的な視点」というとき、空欄を埋めろという問題があったが、このとき候補で「個人」「独創」「個性」が上がるのだが、文章の凹凸から「個人」を選ぶべきだというのは、機械的に選択肢を選びがちな受験生には目から鱗かもしれない。ただ解説が分かりにくい。僕の考えだと、「的」を「性」に置き換えるのがよい。「独自性」は「独創性」「個性」とニアイコールだが、「個人性」という言葉は自然ではない。これは、個人が性質ではなく物理的な対象に近いベクトルだからだ。即ち例文は、ある種物理的なそれぞれの人が「独自」に持つ視点、ということである。
 まあとにかく難しいし、全ての問題が堀木による創作なので(ということは堀木の解答がほぼ絶対的に正しいということを意味する)、堀木の考え方の癖を捉えないと答えにくいところがある。ちょっとばかり現代文は得意だ!と思っている人でも手をつけるとかえって自信を喪失するかもしれないので、『入門編 現代文のトレーニング』を挟むのが無難だろう。それでも悪問ではないと思う。

福田の現代文早大現代文サクセス10 (大学受験ポイント&スコープシリーズ)

福田の現代文早大現代文サクセス10 (大学受験ポイント&スコープシリーズ)

 で、こちらは実際の過去問のみを取り扱っているもの。異常に簡単、と思ったが昔はもちろんそうは思えなかったな……。基本的には演習用と思った方がいい。これで勉強しようとするのには向いていない。やたら解説が軽快なので、分かった気になってしまうからだ。そんなに厳密な解説ではないような気もする。

船口の現代文〈読〉と〈解〉のストラテジー―代々木ゼミ方式

船口の現代文〈読〉と〈解〉のストラテジー―代々木ゼミ方式

 これはとってもいい本ですね。船口という人の本は初めてやったが、とてもオーソドックスで、しかも適量かつ分かりやすい解答解説だと思った。問題文が元は一冊の本だったのだ、という視点はまったく真っ当。ちょっとうざい言い方をすれば、代ゼミ国語科のいいとこ取りという感じもある。つまり田村秀行+笹井厚志という感じ。まあ僕は笹井は受けたことがないので間違っているかもしれませんが、とにかく真っ当な本。全編記述問題なので気分的にはヘビーだが、最後までやってみたくなるものがある。

ライジング現代文―最高レベルの学力養成

ライジング現代文―最高レベルの学力養成

 最後はこれ。もっとも新しいタイプの現代文参考書なので期待していたが結構よい。のだが、霜の同僚らしくというか、ちょっとファビョっているところが気になる。出題の意図を解き文章を読みきることが王道だ、というのは完全に真っ当なのだが、返す刀で(というか返すまでもなく)ちまたに跋扈しているらしい「解法重視型」現代文参考書に対する毒を吐きまくっている。
 これは田村を古典とする代ゼミ派への毒とも考えられるが(駿台はいつも代ゼミの講師をバカにしている)、実際には板野のことをバカにしているのかな。板野は早大現代文を中心にデジタルな解法を宣伝してバシバシ参考書を出しているので仮想敵の代表格と言えるだろう。この板野は快調に代ゼミTVで青木にも批判されていた。その青木氏は「解答作成大全」という本を出しているので、なかなか難しいものである。まあこういうのは一長一短であって、読み方をあまりにも「公式」化するのは読みが膠着化するから問題があるけれども、設問がある以上解答の作り方には一種の常識とか定石みたいなものが出来るのは自然なことだ。第一問は残念ながら客観だったので第二問の記述でこの人の考え方を判断したいところだ。

1――

現代文読解の開発講座 (駿台レクチャー叢書)

現代文読解の開発講座 (駿台レクチャー叢書)

 現実逃避が過ぎるのは分かっているんだが、ついつい手をつけてしまった。第二問までやってみた。
 恐らく以下のような感じではないか。

†現代文が不得意な人
 語り口が優しくて読みやすい。
 解説が豊富で分かりやすい。
 雑談が勉強になる。

†現代文が得意な人
 文体がうざい。
 解説が冗長で無駄が多い。
 雑談がうざい。

 まあやっていることはほとんど田村秀行と一緒なので、問題集と割り切ればそんなに悪いものではない。が、基本的にはうざい。序文で他参考書やら清水義範やらを名前を挙げずに揶揄っているところもうざい。性格が悪いのだろう。

 それはそうと第一問は悪問である。設問を解いている分には問題がないが、これを無理やり要約しようとすると破綻が生じる。なぜなら、出題者の設問の切り取り方が強引なため、仮に設定された二つの意味段落の間に有機的な関係がないからだ。具体的には、この文章は「東京の都市形成の二つの段階」とでもいうべき内容で、第一段階の江戸にはこういう理論が、第二段階の明治東京にはこういう理論が当てはまる、ということを言っている。頭から読むとこの二段階論が重要に見えるのだが、切り取られた部分の末尾を見ると、明治東京のモザイク的な要素が面白く、これが現代の東京にも息づいている、という内容になる。すると、江戸に関する説明にはほとんど意味が無くなるのである。むしろこの問題文の不備を指摘することが重要ではないかと思われる。

 第二問はまあよく言えば論理的な文章だが、同時に加藤周一は悪文家だと思った。論理的といえば論理的だが、翻訳調の節回しが機械の書いた文章のようで気持ち悪い。頭の脱文補充に猛烈に時間がかかったのだが、その理由は「によって」が過剰に連打されることが、少し考えのある作家ならしないだろうと考えてゆえのことである。大体経済学なら産地や値段は考慮するだろ、とか筆者の定義に対して疑義が感じられるなど、これも悪問感が強い。明治大学の入試問題だがナンセンスである。「その他の性質」「捨象」のキーワードで形式的に解答できるが、本質的な根拠は「原典にそう書いてある」しかないのではないかと思われてくる。まあ、これは入試問題に対しての苦言であって霜に対する苦言ではない。

新書幻想

 興が乗ったのでもうちょっと書く。
 受験参考書という奴は極めて絶版になりやすく、従って古い本ほど名著と噂されて古本市場で高騰しやすい。古い本は現役生が手に取る機会に乏しく、あたかもそこにお手軽に成績を上げることができる「魔法」が書いてあるような錯覚を起こさせるからだ。もちろん中には名著もあるが、そうでないものの方が多い。(例えば『新釈現代文』は解法があやふやだし、前にも書いたが『思考訓練の場としての現代国語』も著者の思い込みだけで問題を解いているところがある。)ましてや、最新の入試に対応するためには当然新しい参考書を使うべきだろう。
 しかし他方、難関校ほど教養が重要である、というクリシェもまた同じくよく言われる。教養と言えば古い名著がまさに該当しそうなものだが、それ以外でも例えば現代文や歴史などでは知識を深めるためには新書が勧められることが多い。実際、入試現代文には新書から問題がよく採用されるし、難易度を考えてもそこまで重苦しいものではない。(が、高校生の頃の僕には新書はあまりにも重苦しい「大人の読み物」だった。大学に入ってからようやく少しずつ読みだした。)
 古い名著、受験参考書ではない大人向けの新書、などというものは少しひねくれた受験生を誘引するまさにルアーである。恐らくはそのマーケティングの結果生まれたのが、新書分野における受験参考書、とでも言うべきジャンルである。
 今となってはこの分野には驚くほどのタイトルがひしめいている。リンクはしないが列挙すると、『考えるための小論文』『入試数学伝説の良問100』『河合塾マキノ流!国語トレーニング』などはまさに名著と呼べるだろう。いずれ取り上げることもあるだろうが、他方、怪しい本もある。その中でもマックス怪しいと思ったのが、意外や意外、駿台の講師陣が書いた下記の本である。

駿台式!本当の勉強力 (講談社現代新書)

駿台式!本当の勉強力 (講談社現代新書)

 何がマックス怪しいと思ったかというと、サイエンスに属する教師がまともなことを書いているのに対して、いわゆる文学に属する連中がいまいちだったことだ。特にいまいちならまだしも、一部は有害とすら思った。
 大島自体は優れた英語講師だが、音読が重要だ、というくらいしか内容がないことを言っているし、「塗り絵」「貼り絵」批判は、迂遠な和田秀樹批判であってどうも見苦しい。伊藤和夫入不二基義、薬袋善郎といった駿台出の名教師であればもっと面白いことを書いただろうにと思わずにはいられない。
 面白かったのは日本史の野島で、ハーバーマスやアンダーソンを利用して、近代国家の成り立ちについて説明している。これは受験日本史を明らかに逸脱しているが、大学に入って学ぶべき近現代思想の中核であるので、とても有益だ。歴史は科学なのである。
 最大の問題は現代文の霜栄だ。小森陽一のように近代国家・近代国語批判をしたいのはよく分かるが、その役目は野島のほうがよっぽどロジカルに果たしているし、どうも叙情的で論理性に欠けた、そのくせ文体的魅力のない単に冗長な文章を書いているようにしか見えない。難しい言葉を使えば主要読者層であるはずの高校生をけむにまけると思っているようなところが見えているのも鼻につく。
 また、かつてセンター試験に出題された山田詠美『眠れる分度器』を取り上げて、その設問選択肢のどれを選んだらどういうタイプの人間か、だなんて血液型占いのような軽薄なことをしている。これも高校生をナメているとしか思えない。
 だが最悪なのは出典を隠して中核的な叙述をしていることである。石原千秋も指摘しているが、霜が『眠れる分度器』を読むとき使う方法論は、プロップの物語類型である。出典を隠しているのも悪ければ、なぜその方法論が読解に使えるかを明らかにもしていない。ひどいものだ。また、終端の結論として、読解というものは構造と構造からの逃走によって主体と客体を同時に立ち上げるような世界と自己の関係が生まれる、とでも言うようなまとめがなされる。いわゆる国民国家批判とポリフォニー、今風に言えばマルチチュードについて述べておりまあそういうことを言うのは自由だが、このキーワードからも明らかな通りこの話の出典は明らかに浅田彰『構造と力』『逃走論』である。しかし当然のようにそれの言及もない。
 石原千秋は霜のこの態度を学者的誠実のなさと言って批判しているが、それ以上に有害である。本書全体のテーマはいわば受験勉強から大学学問への緩やかな連帯とも言うべきもので、例えば野島は見事にその役目を果たしている。しかし霜はむしろそれを阻害している。きちんとした引用の仕方をしないことは教育的に有害だし、そのような書物を紹介しないことは知識を隠匿して読者に対して優位に立とうとする権威主義である。伊藤和夫は『英文解釈教室』の難解さを、学者になれなかったことの復讐だったと後悔していたというのに、霜の文章にはそのような節度が全くなく、学者にも作家にもなれなかったというルサンチマンだけが渦巻いた決定的な悪文となっている。もしもこの本を読む受験生・高校生がいたら、少なくとも学問や批評というものはこの霜のような文章を批判することから始まるのだ、と声を大にして言いたいものである。

(どうでもいいが、霜の『現代文読解力の開発講座』がアマゾンレビューでは極めて高評価――信者的な感触を覚えるほどであるのが気になっている。文章力と受験指導力は比例しないので別に良書ならそれはそれでよいが、上述のような心持ちであるので近々取り組んでみようと思う。)

受験参考書総論1――薄さの効用

 基本受験参考書を選択する際の極意は「薄い物を選ぶ」に限る。
 これはニアイコール「読みやすいものを選ぶ」でもあるのだが、読み易さは人によって千差万別なのでやはり「薄さ」が重要だ。読み切るという経験には、定着率的にも、また気分的にも大きな効用がある。
 また、薄いということには一般に考えられている以上の意義がある。一つは薄くするからにはエッセンスを詰め込まなければならない。必然的に内容の重要性が高まる。また、薄い本を成立させるためにはこと受験科目のものにおいては体系性が重要になる。例えば「社会学の教科書」などといった手合いのものはしばしば先端分野がつまみ食い的にいくつか取り上げられるということになりがちだ。これはギデンズの『社会学』が大変な厚さであることからも明らかな通り、体系を示すことそれ自体が膨大な作業となる学問群だからだ。しかし、受験参考書にそういう韜晦は許されない。受験参考書で薄いからには、ある分野に問題を限っているか(例えば数学における「確率」「数列」「微積分」のように)、全体の簡潔な見取り図になっているかの二通りである必要がある。それは「取扱説明書」のようなものだ。可能であれば僕も「現代文の取扱説明書」のような感じで参考書を書いてみたいところだ。
 

社会学 第五版

社会学 第五版

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 とうとう師走である。父が誕生日なので日本酒「十四代別撰山田錦」を贈った。喜んでくれていた。甘口で飲みやすく、酒が得意でない母も賞味していた。よかった。何やら父が、心臓の調子が悪い、ということを言っていたので不安になる。心不全は、寿命ということを強く思わせる。高齢なのでどこにも身体にガタが来ていない方がおかしいのだが、ともあれ脳卒中心筋梗塞、ガンなどといった恐るべきものには祟られていないことを幸運と思っておこう。長生きしてほしい。親孝行も全く足りないのである。したいときに親はなし。迷惑ばかりかけている。もっと真面目に生きよう。

1――例え知的常識から解答できるにせよ、根拠は文中に無ければならない。

当サイトは淡々と受験参考書を解いていくサイトになりました(笑)

思考訓練の場としての現代国語―受験国語

思考訓練の場としての現代国語―受験国語

全339pに多分9ptくらいの文字が二段組みで詰まっている本。そのため見た目よりも遥かに分量が多い。

多田の『思考訓練の場としての英文解釈』が神本ということで、こちらも同様に神だろうという想定をしていたが(実際アマゾンレビューも絶賛ばかりだ)、どうも怪しい。

試しに冒頭一題を解いてみたが、その第一問である、「言語的危機」を説明せよ、という問題の解答法がとても怪しい。(外山滋比古『日本語の論理』より。)

本文は夏目漱石の事例などを取り上げながら、近代日本語が翻訳文化であることによっていかに不安定であったかを説いている。

棟は、自己が二つの言語に迫られて、どちらかに賭けなければ思想的な存在が危うくなること、と「言語的危機」を説明している。しかしこれはおかしい。(「思想的な存在」なんていう言葉が本文のどこにもないことも気になる。)

このおかしさは、まさに本シリーズの典範である『思考訓練の場としての英文解釈』第一章を読めば分かる。著者の多田は、外国語(とりわけ英語)を学ぶことはそれによって我々の母語である日本語が震動し彫刻されることだと言っている。その通りだ。

つまり棟の誤謬は、言語が「思想的な存在」即ち「主体」と深い関係にあることを知りつつも、それを言語から切り離した通俗テカルト主義的な発想をしていることにある。迫られているのは日本語によって規定された自己に他ならない。そして、自己を規定する日本語が震動しているからこそ自己もまた震動するのである。「言語的危機」とは、かような意味での文化または自己のアイデンティティの崩壊に他ならない。(明治以降、日本語がほとんど新しい形に生まれ変わったのは、それによるアイデンティティの再構築である。柄谷行人日本近代文学の起源』などを参照せよ。)


ということで、のっけから出鼻を挫かれた印象である。特に同様の記述が同シリーズの最重要点として書かれていることに意識が届いていないことが悪印象を強めている。

通信添削であることを活かして、生徒の誤答を取り上げ、それがどう間違っているかを論っていくのは面白いのだが、それだけではなく、合理的な即答があることを期待したい。長いので少しずつ読んでいきたいところだが、正直、この書物を読むことは時間の無駄ではないかという恐怖が強まっているので、相当に後回しにするかもしれない。