1――英文解釈とは語の一対一対応ではない

思考訓練の場としての英文解釈(1)

思考訓練の場としての英文解釈(1)

偏差値70〜
2chでは完全に神格化されている伝説の参考書だが、実際にやってみている人は少ないようなので手にとってみた。
印象としては日本語が難しく、旧制高校的というか、ドイツ哲学的な印象を与えるので、多くの人はまずそれに面食らうだろう。しかし序文に書かれていることはシンプルで、外国語との出会いは自分が自然(無意識)と思っているような言語のメカニズムを意識下に引っ張り出して把握することだ、ということを述べている。これを見ては有名な『英文解釈教室』(伊藤和夫)の自転車の比喩による序文を思い出した人もいるだろう。
そこで批判されているのは機械的な一対一対応だ。これはさっきまで読んでいた西きょうじの本がなめらかな意訳を試みていたことと軌を一にする。言語は、言葉単体で定義されるのではなく、より大きな構造の中で機能を果たすのである。まさに思考訓練。

で、内容はかなりスパルタなドリル的な感じがあるのでいくつか取り出してやってみることにする。その最初の問題はなんと以下。

Democrasy is the government of the people, by the people, and for the people.

誰でも知っているリンカーンの名演説である。「民主主義とは、人民の、人民による、人民のための政治である」ということで言葉の因数分解に関してかなり優しいところから始まっているので、このレベルなら偏差値60でも使えるだろう。

解いていて目に止まったのはこの例文。

She always looked, but never really was, happy.

僕は最初これを「彼女は本当は幸せではなかったのにいつも幸せそうに見えた」と訳したが、それでは駄目なことに気づいた。なぜかというと、これはhappyという結句に二つの文章が掛かっているのであって、alwaysーーなのに(but)本当は〜、と訳されねばならないからだ。つまりこの文章の正体は、She always looked happy, but never really was (happy).で、「彼女はいつも幸せそうに見えたが、本当は決してそうではなかった」となる。この語順の違いは単語の一対一対応という低レベルの考え方の人には違いが分からないが、日本語で比較してみれば明らかにニュアンスが異なることが分かるだろう。力点が異なるのである。

しかし最初のドリルをばーっと解いてみたが、長い文章のものは極めて近代主義・理性主義的で時代を感じさせる。


どうでもよいがこのような思考訓練的な文章を読んでいると、文脈や常識から文章を把握することの、つまり教養の重要性を痛感する。例えば代ゼミの富田は、なんとなく英文を読むことを排除し、パズル合わせのような厳密なルールによる一貫した手続きで文章を読むことを信条として東大など難関大英語の講座を担当し、毎年成果をあげているわけだが、それとはまた異なった次元で文章はまさに文化的であると思った。人間は分からないことを文法的に推測できるなら、分かることから文法を推測することも可能なはずである。ただでさえ人生経験や視野に乏しい受験生は、こういうところでも苦境に立たされている。